橘流筑前琵琶日本旭会の支部旭会として2015 年設立。
それぞれ別の旭会に所属していた、石橋旭姫、原口旭愛、西田旭希代三人とも福岡県南部筑後地域のみやま市に縁があることがわかり、筑後地域に拠点を作ろうと、三人を中心に筑後旭会を立ち上げる。
かねてよりサポートくださっていた八女市の茶商、矢部屋許斐本家様の文化財の建物のお座敷をお稽古部屋として利用させていただき、毎月公開お稽古会を実施し琵琶の音を日常の音となるよう活動をしている。
2016 年には筑後旭会の石橋、原口、西田の三人で演奏家グループ kochou を結成。
筑後旭会 kochou として演奏活動も積極的に行っている。
桓武天皇の時代(720―805)筑前国三笠郡四天王山北隅の渓谷に、橘定玄と称する一沙門があった。延歴 7 年比叡山延暦寺根本中堂創建の際に上洛し、琵琶を弾じ「地鎮陀羅尼経」を読誦して、国土安穏を仏天に祈りその法力を認められ、朝廷より「玄清」の名と「法印」の号を賜って帰国した後、成就院を建立して筑前盲僧の本山とし、盲僧を集めて「地鎮陀羅尼経」を唱え、琵琶を弾じることを教えた。これが後世の筑前琵琶の源流となっている。
玄清法印没後、九百五十余年を経た、安永十年五月、筑前琵琶中興の祖といわれる橘真定は、京都粟田口清蓮院宮に請い、盲僧部を再興した。その真定から五代目に当たる橘智定が、筑前琵琶旭会宗家一世旭翁である。一世旭翁は、明治十八年の頃から楽器の改良と共に歌節の創作を志し、明治三十二年、小松宮の御前弾奏に際し、初めてこれに「筑前琵琶」と命名した。
明治四十二年五月「大日本旭会」を組織して全国門弟の統率を図る三世旭翁の世には先考の遺曲をも守りつつも、常に時代に沿う新曲の創作を続け、戦後は琵琶の復興に全力を注ぎ、昭和二十四年、大日本旭会を「筑前琵琶日本旭会」に改め新しく自由な作曲をすすめ今の世にまで続く礎となる。